右脳ゲーム

星ドラでぼーっとお任せ検索で都道府県未クリアを探しながらこんな言葉を思いついた。現代の万人に受けるゲームと言うのは右脳だけでプレイ出来るように作られているのだろう。RPGFPSもソシャゲもどれもチュートリアルやユーザーインターフェイスが単純かつ直感的にゲームプレイが出来るようにしてくれている。

一部にはそうでは無いゲームも存在する。複雑なルール、使いにくいインターフェイス、難解な用語、鬼畜な難易度。とかく一般にはクソゲー扱いされるセールスを記録するスルメゲー、マニアゲーは総じて左脳を使わなければまともなプレイ自体が困難である。

こうした左脳ゲームではプレイヤーの差と言うのは付きにくい。そもそもプレイ出来ている時点である程度のレベルには達しているわけだ。一方右脳ゲームは本当に同じゲームをプレイしているのかと疑いたくなるような差が発生する。この差と言うのはもちろん右脳自体の処理能力の差もあるだろうが大部分は左脳を使っているかいないかの差だと思う。

「こんなげーむにまじになっちゃってどうするの 」と言われていた時代から30年ほどたってゲームでも生活が出来るようになってきた。その大きな要因として右脳だけでプレイ出来るゲームが開発されプレイヤー間に大きな差が生まれた事があるように感じた初秋であった。

小森のおばちゃま

こどちゃのあのおばちゃまと母親とが被って嫌になる。見栄や体裁ばっかで自分自身や言われた方の事なんて考えない言葉を投げかけてくる。もう何回罵倒したい言葉を噛み殺してきたか覚えてないよ。その度に左脳が死んで右脳の感情ばかり強くなる。

以前はこういった気持ちをどこにも出さずに自分の中だけで処理してきたけど今後はここに吐き出していこうと思います。

魂の価値

攻殻機動隊の話です。士郎正宗原作、押井守監督のGHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊が有名やね。シリーズも多くて今度、北野武も出演してハリウッド映画にもなるらしい。

このSFバリバリの作品にも色々考えさせられました。設定は脳にマイクロマシンを注入する事によって電子的に脳内に出入りが可能となる電脳技術とそれよっていわゆるサイボーグの義体、完全義体が普及している時代。生まれた時から完全義体になっていた草薙素子が対テロ組織公安9課を創設してさまざまなサイバーテロを解決しつつ魂と人間について模索していく話。

作中で素子はたびたびゴースト(魂)という言葉を使います。ゴーストが有るか無いかが人間とロボットの違いであり、ゴーストを失った、または書き換えられた人を人形と素子は表現しています。電脳技術によってウイルスを使った洗脳、擬似記憶の植え付けにより本人の知らぬ間にテロリストにされた人達も出てきます。

こうした事件を通じて肉の体を持った記憶の無い素子は自分がゴーストだと思っている物も誰かの書いたプログラムなのでは無いかと常に疑っています。

そして大きな転機となる人形使い事件より以後は自らの因子をネットにばら撒きクローンも作ったりしています。知性の子として生まれた素子が生物としての繁殖活動をクローン作りとして獲得してじゃあその魂はどこに向かうのか?といった所で話は終わっています。

結構前提の知識を入れとかないと映画いきなり見てもワケワカメになるからそこは注意が必要。スロットのとか分かって打ってる奴おらんかったんじゃないか?

今回はこの辺にしてまた新作公開されたらなんか書きたいな。

 

ブログいじり

アカウント画像をアップしたりカテゴリー作ってみたり基本なんだろうけど今までやって来なかった事が多くて時間かかる。

ブログスタイル編集はPCから、記事投稿はスマホからになりそう。

HTMLの記述だとかすこーし弄っただけでめちゃくちゃになりそう。まずコマンドがわからんがね。

二面性、表裏一体、陰陽、多重人格

まあどれも同じ様な事を意味しとる訳ですな。このブログ開設のきっかけとなった自分の脳内の分裂体験であるとかを一つの人格に戻った現在分析していくとこういった言葉になってくる。

そして今まで自分が見聞きしてきた世の中の事に目を向けるとあーだいたいそうなんだなぁと思うのであった。

人格が分裂する体験をして最初に思い起こしたのが幽☆遊☆白書の仙水忍。作中で7つの人格を持つ多重人格者である事に触れられている訳だけど明確に表に出てくる描写があるのは3人。理屈屋のミノル、殺し屋のカズヤ、そして主人格である忍である。

結局は冨樫先生も人の多面性と言うのを3つまでしか分解出来なかったのかなと思う。つまり理性と本能とその二つが合わさった結果の人間性。この三位一体が人間を構成する要素としてだいたいの話を説明出来ると感じた。

幽☆遊☆白書で好きなキャラクター戸愚呂弟と玄海にもその辺を見出せる。二人の関係を言葉にすると同門の武術家であり恋人であり道を違えた敵になるのかな?互いに惹かれながらも戦わざるえなくなった切なさがすごく好きだ。特にラストのシーン、戸愚呂が地獄に向かう途中で玄海が若かりし日の姿で互いの思いをぶつけてまた別れるあのシーンは鮮明に思い出せる。二人とも武術家としての人間性を持ち、本能の男と女として惹かれながらも理性の道が別れてしまった。その一点だけで悲劇になる人間の難しさが表現されてたとおもう。

今回はこの辺で終わり。また同じテーマで別の話を分析しようかね。

 

ミュージカル

夜半に目が覚めてツイッターをチェックするとミュージカルっぽい話題があった。ミュージカルの思い出をつらつらとツイートしていたら思いの外長くなったのでこちらに書く。

ツイートからの続きになってしまうがサウンドオブミュージックでの歌、と言うかミュージカルでの歌は登場人物の心情感情の表現に使われている。不安、思慕、幸福、驚愕、悲観、憐憫、諦観、歓呼。詳しく思い出した訳ではないがサウンドオブミュージックの中ではこんなような心情の時に歌い出していたように記憶している。

この次に思い出すのは東京の宝塚劇場に家族旅行で行った事だ。この時は移動の為に早くに起こされたので薄暗い劇場で眠くなってしまったので残念ながら劇の内容は覚えていない。遠方への旅行の時はだいたいこうなってしまう。日帰りなのが良くないんだな。

それはともかく宝塚劇場での思い出はお土産コーナーである。当然さまざまな過去の舞台のDVDであるとか演者の各種ブロマイドなどのグッズが所狭しと並べられている訳だ。その一角に銀英伝の舞台のDVDを見つけたのを強く覚えている。宝塚では古典的なベルサイユの薔薇であるとか三銃士の様な物ばかりやられていると思っていたが小説漫画原作の舞台も数多く作られていたのだ。あとで調べたらるろ剣なんかも舞台化されていた。

この体験でかなりの親近感をミュージカルに覚えてからはミュージカル映画もすんなり受け入れられる様になった。特に最近だとウルヴァリンヒュー・ジャックマンが主演したレ・ミゼラブルなんかは映画館に観に行ったりした。アカデミーにもノミネートされて確か受賞してた様に記憶している。

今現在で言うとかんぽ生命のCM。そーれーは人生ー私の人生ーあーあーだれの物でもなーい。あれがかなりお気に入りである。まず曲がいいと思ったが椎名林檎提供らしい。リオオリンピック閉会式の演出で話題になりましたね。演者の女の子(名前知らない)は顔はそんな好みじゃないけど声は割と好きかな?

そんなこんなでミュージカルの思い出を書いてみたけど結論はミュージカルも良いもんだからみんな観るといいよ!って事やな。

食事

食事の時は右手を使うわけだがその時動いているのは右脳人格のカズヒロらしい。右手なのに右脳なのはなんか変な気もするが仕方ない。

お茶碗を持つのは左手で左脳のリョウマ担当だが今日は寝ていたらしく左手があまり動かさなかったので少々行儀悪い食べ方になってしまった。